「秋の歌」( 原題:Chanson d’automne)は、フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)の詩です。
日本では上田敏(1874-1916)が訳詩集『海潮音』のなかで、「落葉」と題して訳している詩が有名です。
「秋の日の ヰ゛オロンの ためいきの…」という出だしを、一度は目にしたことがある人は多いのではないでしょうか。(ヰ゛オロンとは、ヴィオロン。つまりヴァイオリンのことです)
「秋の歌」を、上田敏の訳を中心に、堀口大学・金子光晴の訳と共に紹介しますね。
落葉(詩:ポール・ヴェルレーヌ/訳:上田敏)
落葉
秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。CHANSON D’AUTOMNE
- Les sanglots longs
- Des violons
- De l’automne
- Blessent mon cœur
- D’une langueur
- Monotone.
- Tout suffocant
- Et blême, quand
- Sonne l’heure,
- Je me souviens
- Des jours anciens
- Et je pleure;
- Et je m’en vais
- Au vent mauvais
- Qui m’emporte
- Deçà, delà,
- Pareil à la
- Feuille morte.
詩の鑑賞と解説
音楽的である三つの理由
上田敏の「落葉」は、まるで音楽の調べが聴こえてきそうな訳詩ですね。
音楽的である理由として、三つ挙げることができます。
一つめは、上田敏が日本語の響きを大切にしながら訳していること。詩行を五音に、連を六行に揃えて、繊細に言葉を選んでいます。
二つめは、「ヰ゛オロン(ヴァイオリン)」や「鐘のおと」など、楽器が効果的に描かれていること。
そして三つめは、原作者のポール・ヴェルレーヌの詩が、音楽性に優れていること。ヴェルレーヌの詩は音楽家にも愛されて、たとえばフォーレやドビュッシーも、ヴェルレーヌの詩を元に作曲をしています。
上田敏は、『海潮音』の「落葉」の添え書きとして、次のような言葉を残しています。
仏蘭西の詩はユウゴオに絵画の色を帯び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具へ、ヴェルレエヌに至りて音楽の声を伝へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉へむとす。
ポール・ヴェルレーヌの若々しい感傷
「落葉」は、ポール・ヴェルレーヌの第一詩集『サテュルニアン詩集』の、「哀しき風景」で発表されました。出版時、ヴェルレーヌは若干23歳。
人生経験を重ねてからの作品かと思っていたのですが、違うのですね。よく見ると、若々しい感傷がそこに秘められているようです。
日本の詩人の多くも、たとえば萩原朔太郎や中原中也などが、若い時から哀しみや憂いを歌っています。
仏蘭西のエスプリ・日本のあわれ
「落葉」の哀愁は、日本に古来からある「もののあわれ」にも通じています。
上田敏の訳詩が、日本人に受け入れられたのは、新しさと懐かしさが共存していたからしょう。仏蘭西からもたらされた新しいエスプリと、日本に昔から根づく懐かしい精神が、この訳詩から感じられます。
「秋の歌」の翻訳詩・いろいろ
「秋の歌(落葉)」は、上田敏に限らず、多くの文学者が日本語に訳しています。
ここでは堀口大学と金子光晴の翻訳を紹介します。
堀口大學による訳
秋風の
ヴィオロンの
節ながき啜泣
もの憂き哀しみに
わが魂を
痛ましむ。時の鐘
鳴りも出づれば
せつなくも胸せまり
思ひぞ出づる
来し方に
涙は湧く。落葉ならね
身をば遣る
われも、
かなたこなた
吹きまくれ
逆風よ。
堀口大学(1892-1981)は青春期の約10年間、外交員の父に伴われて、海外各国で過ごしました。
ポール・ヴェルレーヌの母国である、フランスのパリにも身を置いたことがあります。
『月下の一群』という、優れたフランス訳詩集を後に出版。フランス語を血肉とした、堀口大学ならではの訳詩集です。
堀口大学の訳詩は、当ブログでも紹介しています。


金子光晴による訳
秋のヴィオロンが
いつまでも
すすりあげてる
身のおきどころのない
さびしい僕には、
ひしひしこたえるよ。鐘が鳴っている
息も止まる程はっとして、
顔蒼ざめて、
僕は、おもいだす
むかしの日のこと。
すると止途もない涙だ。つらい風が
僕をさらって、
落葉を追っかけるように、
あっちへ、
こっちへ、
翻弄するがままなのだ。
金子光晴(1895-1975)も、堀口大学と同様、海外を旅したことがある詩人です。
1928(昭和3)年からは東南アジアから欧州へ、足かけ5年かけて放浪。行く先々で生活費と旅費を調達しながら、旅を続けました。
その途上においてパリで生活したこともあります。「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやった」と、後にふり返っています。
型破りで、反骨精神のある、ユニークな詩を残しています。
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