立原道造のソネット「はじめてのものに」

立原道造の詩「はじめてのものに」は、どこか謎めいていて、人を惹きつける魅力があります。

さっそく以下で全文を引用して、解釈していきますね。

はじめてのものに

ささやかな地異ちいは そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明かつたが 私はひとと
窓にもたれて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

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立原道造「はじめてのものに」~鑑賞・解説~

いかがでしたでしょうか。

心にすんなりと響きましたでしょうか。それともやっぱり、謎めいていたでしょうか。

私がはじめてこの詩に触れたとき、意味はよく分からないものの、灰が降りしきるイメージが心に焼き付いて離れませんでした。

「なぜ灰が降るのか」「なぜ蛾が出てくるのか」「エリーザベトとはだれか」という風に、心に引っかかるところが多いこの詩が、妙に気になって仕方がありませんでした。

私と同じように感じている人は、意外と多いのではないでしょうか。

それでも気になって何度も読み返しているうちに、この詩の片鱗がようやく見えました。

「はじめてのものに」は、恋のはじまりの詩であると同時に、実は恋のおわりの詩でもあるのだと。はじまりとおわりが共存しているから、謎めいているのだと気づきました。

どうしてそのように解釈できるのか。

私が初見で引っかかったところを中心に、これから解説していきますね。

「はじめてのものに」の解釈は?

題名:はじめてのものに

「はじめてのものに」は、立原道造の第一詩集「萱草に寄す」の冒頭を飾る詩です。

「はじめての恋に」とも「はじめての人に」とも受け取れるし、後で詳しく触れますが、「はじめて体験した噴火」とも言えます。詩集の冒頭にあることから「はじめての詩」という意味もありますね。

この詩はタイトルからして含みがあり、読む人を詩の世界へと誘います。

第一連:ささやかな地異

灰が降りしきるイメージが秀逸な第一連。

立原道造が毎夏を信州で過ごしていたことから、「ささやかな地異」は浅間山の噴火、「この村」は追分村と言われています。

ただ固有の地名にこだわる必要はなく、独立した詩の世界と考えていいでしょう。

さて、「ささやかな地異」を背景に、心象風景が重なります。

「灰」は心が燃えて生じたもの、つまり、恋のはじまりを予感させます。ただ、死を連想させる「かたみ」に「かなしい追憶のやうに」「降りしきつた」ことから、恋のおわりを示しているようにも見えます。

第一連の不思議なところは、これが恋のはじまりとも、恋のおわりとも解釈できるところ。

恋のはじまりと解釈した場合、第二連以降は、悲しい結末になることを予感しながらも、「ひと」に心を焦がさずにはいられない様子が見られるようになります。

それに対して、恋のおわりと解釈した場合、第二連以降は追憶となり、「ひと」と別れる予兆がすでに散りばめられていたのだと、後になってふり返るような形となります。

第二連:ひと

「ひと」というのは、若い女性のことです。

第一連の自然風景に対して、第二連では室内の様子が描かれています。村や家々の広々とした光景から一転して、峡谷という狭められた地点に喩えた部屋へと話を進めるところが、巧みです。

彼女と窓にれて語りあったことや、光と笑い声が溢れていたという描写から、幸せで寛いだひと時であったことが察せられます。

ただし、彼女を「ひと」と呼んでいるのは、どことなく距離を感じます。括弧書きで山の姿が描かれているのも意味深です。

第三連:蛾を追ふ手つき

「蛾を追ふ手つき」は、どこか不吉なものを感じさせますね。

彼女の手つきが、蛾を追うものなのか、蛾をとらえようとするのか、「私」はいぶかしかったと言います。

光を求めて飛ぶ蛾は、彼女に惹かれる「私」の暗喩でしょうか。「私」を、彼女は避けようとしているのか、それとも受け入れようとしているのか、人の心はわからない……と悩みはじめます。

点線以下に省略されているところに、悩みの深さが感じられます。

第四連:灰の煙・エリーザベト

「いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか」は、藤原定家の短歌の本歌取りです。

「どのような日に恋心が燃えて灰の煙が立ちはじめたのか」と回想しているのでしょう。

「エリーザベト」は、ドイツの小説家・シュトルムの名作「みずうみ」の女主人公の名前です。この小説では、幼なじみでお互い好意を抱いていた男女がすれ違い、別れるさまが描かれています。

立原道造は学生時代にシュトルムの翻訳をして、短編集まで出版しています。「みずうみ」もドイツ語の原文で習っていたと考えられます。

自分が恋する「ひと」を「エリーザベト」になぞらえて、幾夜も夢で見たということですね。

ここで押さえておきたいのは、「みずうみ」が別れの物語であること。「私」の恋も、やがて悲しい結末で終わることを暗示させます。

【まとめ】「はじまり」と「おわり」が共存している世界

立原道造「はじめてのものに」について紹介しました。

くり返しますが、「はじめてのものに」は、恋のはじまりの詩であると同時に、実は恋のおわりの詩でもあります。

両方の解釈ができるなんて、何だか不思議ですよね。

かといって、どちらの読み方が正しいのか、決着をつける必要はありません。

「はじまり」と「おわり」が共存している世界を、立原道造は構築したかったのはないかと、私は最終的にそう解釈します。

光と闇の中間であり、暁と夕との中間であつた。形ないものの、淡々しい、否定も肯定も中止された、たゞ一面に影も光もない場所だつたのである。

以上は、第二詩集『暁と夕の詩』の完成後に書かれたものです。

「はじめてのものに」を書いたときから、すでにこのような中間の世界を志向していたのではないでしょうか。つまりは、はじまりとおわり、過去と未来が、同時に存在する世界です。

現実から飛躍した時空間がそこにあるから、謎めいた魅力があります。

 

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