茨木のり子さんの代表作「わたしが一番きれいだったとき」を紹介します。
多くの人が教科書などでこの詩と出会い、励まされているかと思います。
わたしが一番きれいだったとき
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりしたわたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまったわたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていったわたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光ったわたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いたわたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼったわたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかっただから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
~鑑賞・解説~
詩が生まれた経緯と背景
「わたしが一番きれいだったとき」は、戦争によって青春を失った哀しさと虚しさと悔しさと、それでも生きていこうとする健気さが、正直に打ち明けられています。
茨木のり子さんは、昭和20年(1945年)当時、愛知から上京していました。帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現:東邦大学)薬学部の学生でした。この詩が生まれた経緯について、次のように語っています。
その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」と、しみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の中の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって……。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか餓死するかの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「わたしが一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の無念さが残ったのかもしれない。
引用元:はたちが敗戦
「みんな生きるか餓死するかの土壇場」のなかで、自分らしく生きていくことが、どれほどまばゆいことか。
詩のリフレイン
この詩は、題名にもなっている「わたしが一番きれいだったとき」という詩句が、それぞれの連の先頭に置かれて、7回繰り返されているのが特徴です。
表現技法でいうところの、リフレイン(反復法)ですね。
同じ言葉を繰り返すことで、思いの強さが、連を追うごとに伝わってきます。
私はこのリフレインに触れると、茨木さんの足取りを体感します。がらがらと崩れた町を、のしのしと歩く、茨木さんの力のこもった踵から発せられたリズムをです。
おそらく平面的な描写だけでは、このリズムは響いてこないと思うんですね。リフレインを多用することによって、詩の世界観がより立体的となっているようです。
同じリフレインが使われている詩として、以下の詩もあります。
詩も人生も真っ直ぐでブレていない
「わたしが一番きれいだったとき」の詩の魅力を一言で表すとすれば「真っ直ぐ」。
自分の感情に対しても、生き方に対しても、真っ直ぐでブレていないから、読む人の心を強く打ちます。
「わたしが一番きれいだったとき」
「わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった」
「だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった」
敗戦という非常事態だと、自分の若さを誇ることさえ、ためらってしまいがちですよね。
おしゃれをしたい、恋愛をしたいという欲求さえ、ひっこめてしまうかもしれません。
ところが茨木さんは、そんな感情さえも、スカッと語っています。読んでいるこちらまで、すがすがしくなるほどです。
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
茨木さんは実際に、79歳まで長生きして、美しい詩を書き続けました。
若いときに決めた生き方を、最期までつらぬくことは、稀有なことです。
くり返します。
この詩の魅力を一言で表すとすれば「真っ直ぐ」。
自分の感情に対しても、生き方に対しても、真っ直ぐでブレていないから、読む人の心を強く打ちます。
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こちらの詩にも、茨木のり子さんの青春時代の思い出がつづられています。もしよかったらご覧くださいね。
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