茨木のり子「根府川の海」…戦争と青春の回想詩

茨木のり子さんは1926(大正15)年生まれ。10代の頃は、戦争の真っ只中にいました。

当時の青春をふり返って書かれた詩、「根府川の海」を紹介します。

茨木のり子「根府川の海」

根府川の海

根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅

たっぷり栄養のある
大きな花の向うに
いつもまっさおな海がひろがっていた

中尉との恋の話をきかされながら
友と二人ここを通ったことがあった

溢れるような青春を
リュックにつめこみ
動員令をポケットに
ゆられていったこともある

燃えさかる東京をあとに
ネーブルの花の白かったふるさとへ
たどりつくときも
あなたは在った

丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ

沖に光る波のひとひら
ああそんなかがやきに似た
十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だった歳月
うしなわれたたった一つの海賊箱

ほっそりと
蒼く
国を抱きしめて
眉をあげていた
菜ッパ服時代の小さいあたしを
根府川の海よ
忘れはしないだろう?

女の年輪をましながら
ふたたび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不敵なこころを育て

海よ

あなたのように
あらぬ方を眺めながら……。

詩の鑑賞と解説

10代の戦争体験

茨木のり子さんは大阪市で生まれ、愛知県西尾市で育ちました。

1943(昭和18)年に上京して、東京都大田区にある帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現:東邦大学)の薬学部に進学します。

当時10代の茨木さんは戦時中に、ふるさとの西尾と東京を、東海道本線の電車で行き来していました。

ある時は、東京の燃えさかる空襲を後にして。

またある時は、学徒動員令をポケットに入れて……

その当時の体験が、この詩「根府川の海」の元となっています。

根府川駅とカンナ

根府川は、神奈川県小田原市にある小さな無人駅です。相模湾に面していて、海を見渡すことができます。

この駅に、赤いカンナが咲いていたんですね。カンナは6月から10月にかけて、炎のような形をした花を咲かせます。

おだやかな海の青と、燃えるような花の赤。

そのコントラストを想像するたび、目が覚めるような思いがします。

死と背中合わせだった茨木さんにとって、根府川の海は、生と青春の象徴だったのでしょう。

文は人なり

さて、茨木さんによると、「根府川の海」は詩誌「詩学」の新人特集号(昭和28年2月号)のために書いたもので、すぐに出来上がったと言います。

たまたまその日は、成人の日で休日。夫と一緒に新宿へ映画「真空地帯」を観にゆくことになっていたが、一寸待ってもらって、原稿用紙に向い、十分位で、ちゃらちゃらと書いたのが「根府川の海」である。既に私の心のなかに出来上がっていたとも言えるが、今ではもう、あんな風に気楽には書けなくなってしまっている。

引用元:「櫂」小史(現代詩文庫 茨木のり子詩集)

「根府川の海」は、茨木さんが自然体で無理なく書いたこともあって、私たちも素直に読めてしまいますよね。

私自身は一読して、とてもいい詩だと感じました。(もちろん、詩を賛嘆しているのであって、戦争を賛嘆しているのでは決してありません)

作品の背景には悲惨で痛ましい戦争体験があるのに、なんで読後感はこんなにも爽やかなんだろうと考えてみました。

やはり、茨木さんの正直な人柄が、この詩にそのまま現れているからだと思います。

まさに「文は人なり」です。

「不敵なこころ」「あらぬ方」とは?

「根府川の海」は、以下の言葉で結ばれています。

女の年輪をましながら
ふたたび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不敵なこころを育て

海よ

あなたのように
あらぬ方を眺めながら……。

「不敵なこころ」や「あらぬ方」というのは、戦後もなお根強く残っている、社会の理不尽な体制や考え方に対してでしょう。

茨木さんはあくまでも自分には正直に、信念を貫いています。その姿勢が言葉から伝わるから、読んでいる方も清々しいです。

「わたしが一番きれいだったとき」と並ぶ名作

茨木さんが「根府川の海」と同じように、青春時代の戦争体験を書いた詩に、「わたしが一番きれいだったとき」があります。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

(部分)

この詩はとても有名で、代表作とも言えますね。

この詩で描かれていた敗戦の、八年後に当たるのが「根府川の海」です。

私はこの「根府川の海」は、「わたしが一番きれいだったとき」に並ぶ名作だと思います。

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