新川和江の詩「わたしを束ねないで」

新川和江さんの代表作「わたしを束ねないで」を紹介します。

詩というものは不思議なもので、一読しただけで心が解放されて、かえってその詩に心を掴まれてしまうことがあります。

私にとって、「わたしを束ねないで」がまさにそう。まるで自分の想いを代弁してくれているように感じました。

娘、母、妻……と、日常生活において多くの役割を演じつつも、自分らしい豊かさを内に秘めている現代の私たちにとって、深く深く共感できる詩です。

わたしを束ねないで

わたしをたばねないで
あらせいとうの花のように
白いねぎのように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色こんじきの稲穂

わたしをめないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃はばた
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしをがないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦いうしお ふちのない水

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
すわりきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
コンマピリオドいくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく ひろがっていく 一行の詩

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新川和江「わたしを束ねないで」~鑑賞・解説~

精神的な自由と身体的な言葉

「わたしを束ねないで」の特徴は、精神的な自由と身体的な言葉が、通じ合っていることです。

この詩のなかで、主人公は自らを「稲穂、羽撃き、海、風、川」にたとえて、精神の自由を謳っています。そこに描かれているのは、何物にも縛られない、何処までも拡がっていくような心です。

では、これらの比喩が突拍子もないかと言ったら、そうではなく、実感のある言葉です。生き生きしていて、肉体をもった言葉と言っていいでしょう。

単なる比喩をこえて、大自然と一体になっているのですね。

だから、この詩に触れていると、まるで自分まで大自然に溶け込んでいって、満ちあふれていくような感覚に囚われるんですよね。

外見と内面の葛藤

「わたしを束ねないで」のもうひとつの特徴は、外から求められている自分と、内から感じている自分の、両者の葛藤が表現されていることです。

外から求められている自分は、「娘、母、妻」というような肩書を持つ自分。

それに対して、内から感じている自分は、あるがままの「わたし」。そうなろうと努力しなくても、自然とそうである自分です。

外からの圧力が強ければ強いほど、内なる本来の自分が、声を上げそうになります。

先ほども触れましたが、現代人はこういった葛藤を覚えている人が多いのではないでしょうか。もしかしたら、あなた自身もそうかもしれませんね。

さすがに以前ほど良妻賢母を求められるシーンは少なくなってきましたが、価値観が多様化して、求められる役割もより複雑になってきているような気がします。

インターネットの普及により、スマホだけで人間関係が成り立つケースも出てきましたね。言葉や画像だけでやりとりする人間関係は、どこか記号的です。肌の温もりや息づかいが感じられません。

そんななか、「わたしを束ねないで」のように身体性の豊かな詩に触れると、かえって新鮮に思えます。

自分のことのように思える詩

では、「わたしを束ねないで」が、他者に自我を押しつけているかと言ったら、そういう風には見えないんですよね。

「わたしをたばねないで」「わたしをめないで」「わたしをがないで」……と、言葉を変えて順々と希求するこの言葉は、他者に訴えかけているようにも見えますが、自分に語りかけているようにも見えます。

自分らしさを取り戻すために、自分の本質に向かって呼びかけているような言葉です。

だからこの詩を見た人は、まるで自分のことのように感じるのでしょうね。

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