冬に咲く桜があることを、ご存知でしょうか。
冬桜は10月から翌1月にかけて咲く桜で、一般的な春の桜よりも花が小ぶりです。ところが、寒空にいじらしくも凛と咲く姿は、潔さを感じるほどです。
今回はそんな、静かな強さを秘めた詩を紹介します。
新川和江さんの「ふゆのさくら」です。
ふゆのさくら
おとことおんなが
われなべにとじぶたしきにむすばれて
つぎのひからはやぬかみそくさく
なっていくのはいやなのです
あなたがしゅろうのかねであるなら
わたくしはそのひびきでありたい
あなたがうたのひとふしであるなら
わたくしはそのついくでありたい
あなたがいっこのれもんであるなら
わたくしはかがみのなかのれもん
そのようにあなたとしずかにむかいあいたい
たましいのせかいでは
わたくしもあなたもえいえんのわらべで
そうしたおままごともゆるされてあるでしょう
しめったふとんのにおいのする
まぶたのようにおもたくひさしのたれさがる
ひとつやねのしたにすめないからといって
なにをかなしむひつようがありましょう
ごらんなさいだいりびなのように
わたくしたちがならんですわったござのうえ
そこだけあかるくくれなずんで
たえまなくさくらのはなびらがちりかかる
新川和江「ふゆのさくら」~鑑賞・解説~
すべてひらがなで書かれた詩。
まるで桜吹雪が散っていくのを見ているかのようです。
一字、一字、掬い取っていくと、この詩が男女の対の恋愛関係について詠っているのがわかります
歌の一節⇒その対句
一個のレモン⇒鏡のなかのレモン
ここで見られる関係は、打てば響くような、いい意味での緊張感と安らぎがあります。
逃げというよりも潔さ
この詩の男女は、事情があって共に暮らせないのか、あえて別々に暮らしているのかもしれません。もしかしたら三角関係のように、世間的には許されない間柄かもしれないです。
ただ、家とか世間といったしがらみを飛び越えて、魂の世界で繋がっていたいと希求しているようですね。
それは逃げというよりも、むしろ潔さです。
お互いが精神的に自立して、覚悟を決めていなければ、あり得ない関係でしょう。
たくさんの苦しみをへて冴えわたる
詩人の茨木のり子さんは、「ふゆのさくら」の男女の恋愛関係について、次のように述べています。
こういう境地に達するには、たくさんの苦しみをへたのかもしれず、それは底に沈めたまま、冴えわたっています。
引用元:詩のこころを読む
これには私も同感です。
桜があんなに美しく見えるのは、厳しい冬を乗り越えて咲くからです。あえて冬を選んで咲く桜なら、その美しさはなおさらです。
だからでしょうか。
詩の終わりで、二人が座った質素な茣蓙の上だけが、明るく暮れなずみ、たえまなく花びらが散りかかるのを、天からの祝福のように感じるのです。
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