中原中也の「汚れつちまつた悲しみに」は、有名な詩です。
誰もが口ずさめるような親しみやすさがあり、心のどこかで共感して慰められる人も少なくないでしょう。
ただシンプルゆえに多面的で奥深く、人によって意味の捉え方や感じ方が違いそうです。
私なりに解釈を広げて、鑑賞文を書きますね。
汚れつちまつた悲しみに
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
中原中也「汚れつちまつた悲しみに」
リフレインの効果
「汚れつちまつた悲しみ」というリフレインが、まるで絶え間ない小雪のよう。
この詩はご覧のとおり、四連中すべてが四行で、七五調を基本とした端正な形をしています。そのすべての奇数行で、この詩句が規則正しく反復されています。「汚れつちまつた悲しみに」「汚れつちまつた悲しみは」……と。
どこか自嘲的で投げやりで、淡々としたリフレインが、かえって深い悲しみを感じさせます。
さて、このリフレインですが、悲しみが汚れてしまったのか、汚れてしまって悲しいのか、主語は明かされていません。
そのため、読む人によって、読む時々によって、さまざまな意味の捉え方ができそうです。
狐の革裘の二つの解釈
狐の革裘というのは、狐の毛皮で作った衣のことです。
私はこの言葉から、二つの解釈を広げることができます。
持ち主から離された
まずは、狐の革裘が、持ち主の身から離されたものと想像できます。
そうでなかったら、小雪に縮こまることはないと思うんですよね。持ち主を温めているうちは、革裘もそこまで寒さを感じることはないでしょう。
私はこの詩を読むと、狐の革裘が雪でぬかるむ地べたに捨てられていて、降りかかる小雪に埋もれていくさまを想像します。
狐の革裘は、持ち主の体形や匂いなどの名残りを、どこかしらに留めていると思います。その名残を秘めたまま、汚れてしまった革裘は、どこか寂し気です。
生身から剥がされた
それから、狐の革裘が、実はすでに死体であるという事実です。
イメージするには、かなり生々しい光景になってしまい恐縮ですが、狐から毛皮を剥がすためには、狐を殺さなければなりません。狐の屍はもちろん、毛皮にも痛ましさが残っています。さらに毛皮には、生きた身体には後戻りができないという、途方もない寂しさもあるでしょう。
その狐の革裘に、小雪がかかります。革裘にも幽かな念が残っていて、かつて生きて雪野原を走り回った日々を思い出しているでしょうか。もうあの日に戻れないのならば、完全に死に絶えてしまいたいと夢みているような気がします。
相重なる孤独感
持ち主から離れてしまった。生身から剥がされてしまった。
この二つのイメージが相まって、「狐の革裘」はどうしようもない孤独感の現れのような気がしてなりません。
倦怠の意味とイメージ
この詩では「倦怠」の二文字が目を惹きますね。「心身が疲れてだるい」とか、「飽き飽きする」という意味です。
悲しいとき、泣き叫ぶ生命力があるうちは、まだ光が見えます。
本当に危ういのは、何も望むことも願うこともできないくらい、底なし沼の鬱に陥ってしまったときです。
悲しい記憶は、走馬灯のように何度も脳裏をよぎって、がんじがらめにするので、そのうち倦きてしまいます。ところが、どんなに倦き倦きしていても、自分が亡くならない限りは、走馬灯も絶えそうにありません。
「汚れつちまつた悲しみ」というリフレインは、降りかかる小雪のようにも見えますが、悲しみの走馬灯にも見えます。
中也の詩の浄化作用
なんだかここまで書くと、この詩は救いようのないほど絶望的な心情で埋め尽くされていると、考えるかもしれないですね。
それでもこの詩に触れて、不思議と慰められる人はいるはずです。
悲しいときに、悲しい歌を口ずさんだり耳にしていると、かえって清々しくなるときがありますよね。
中也の詩にも、そのようなカタルシス効果があると思います。
ここに描かれている悲しみは、確かに汚れているかもしれないです。それでもその悲しみを素手で捕まえて、言葉にぶちまけている中也に、嘘はありません。
中也の詩はそのまっすぐな心ゆえに、多くの人を惹きつけて止まないのでしょう。
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