萩原朔太郎の「月光と海月」は、とても不思議な詩です。読めば読むほどイメージが広がり、いろいろな解釈をすることができます。
世界観が似ている「およぐひと」と共に、紹介してきますね。
萩原朔太郎「月光と海月」
月光と海月
月光の中を泳ぎいで
むらがるくらげを捉へんとす
手はからだをはなれてのびゆき
しきりに遠きにさしのべらる
もぐさにまつはり
月光の水にひたりて
わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか
つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに
たましひは凍えんとし
ふかみにしづみ
溺るるごとくなりて祈りあぐ。かしこにここにむらがり
さ青にふるへつつ
くらげは月光のなかを泳ぎいづ。
詩の鑑賞と解説
「月光と海月」は、萩原朔太郎が詩作をはじめた二十代の頃の作品が元となっています。
元の詩は1913(大正2)年、「月光と祈祷」という題で発表されました。
それを改題・推敲して、1925(大正14)年発行の『純情小曲集』において再録しました。
現実以上のリアリティ
私がすごく不思議に感じるのは、海が周辺にない地で生まれ育った萩原朔太郎が、この詩を書いたことです。
朔太郎は群馬県の出身です。この詩を最初に書いた頃は、東京に足繁く通っていたものの、海で泳ぐ機会なんてほとんどなかったと思います。
ところが、すごく詩がリアルなんですよね。
「もぐさにまつはり」「ふかみにしづみ」という詩句を見ると、「本当に海で溺れるようなことがあったのですか?」と、ついつい聞きたくなります。
(もちろん生きている朔太郎に、そう問いかけるのは叶わないのですが。そう語りかけたくなる雰囲気が、朔太郎の詩にはあります)
では、何でここまでリアルに描けるのか。
それは朔太郎が、日常生活の現実以上に、詩世界の現実に手ごたえを感じていたからだと思います。
朔太郎のリアリティについては、詩人の谷川俊太郎さんも次のように述べています。
朔太郎の詩をどんなに否定する人も、それらが絵空事だと感じる人はいないだろうと思う。どんなに荒唐無稽なイメージを画いても、彼の詩には実になまなましいリアリティがあるんだ。彼がとらえていた、と言うよりも、とらえられていた現実は、決してこの現実から切り離されたものではなくて、この現実と地続きの現実だった。
引用元:ごはん粒をこぼす人(新文芸読本 萩原朔太郎)
シュールな言葉づかい
「月光と海月」については、まだまだ不思議な点があります。
「手はからだをはなれてのびゆき」という詩句がありますが、よくよく見ると奇妙ですよね。
「え?手も身体の一部じゃないの?手が身体を離れるって、どういうこと?」と、やはり朔太郎が生きていたら、そう質問をぶつけてみたくなります。
朔太郎の詩で文脈の矛盾が散見されるのは、三好達治も著書「詩を読む人のために」で指摘しているところです。
ただ、「手はからだをはなれて」と書くことによって、手が胴体からうんと遠くへ離れていくのが、かえってイメージしやすくなりますよね。そういう意味では、リアリティがあります。
朔太郎の詩は、その世界観に限らず、言葉づかいもシュールであるのが特徴です。
さまざまな解釈例
月光のなかを泳いでいる状況は、地に足を着けていない、つまり、日常生活に根ざしていないことの現れでしょうか。
月光の水が全身を覆っていることは、詩や幻想の世界にどっぷり浸かっているようにも見えます。
そして、手に届きそうで届かないくらげは、祈りの対象でしょうか。
くらげには毒針がある種類があり、刺されると命に関わるかもしれないのに、それを捉えようとするところに何か深い意味がありそうです。
くらげを捉えようとしているうちに、わが身までくらげのように透きとおっていきます。月光の水やくらげといった、諸々のものと一体化しているようにも感じられます。
「手はからだをはなれてのびゆき」という詩句について先ほど触れましたが、しまいには手が身体から本当に離れていって、くらげになって泳いでいったとも解釈できそうです。
泳いでいる場所についても、「月光の中を泳ぎいで」「月光の水にひたりて」と書かれているだけで、海で泳いでいるとは実は一言も書かれていないです。
天空の幻影風景のなかで泳いでいるとも解釈できそうです。
朔太郎の詩「天景」では、そういった幻影風景が描かれています。
萩原朔太郎「およぐひと」
最後に「およぐひと」という五行詩を紹介します。
こちらは第一詩集『月に吠える』に収められています。
およぐひと
およぐひとのからだはななめにのびる、
二本の手はながくそろへてひきのばされる、
およぐひとの心臓はくらげのやうにすきとほる、
およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ、
およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。
「瞳」は「ひびきをきき」、「たましひ」は「月をみる」と表現されているのが、やはりシュールですね。(本来なら「瞳」はみるもので、「たましひ」は感じるものでしょう)
「月光と海月」と同様、およぐひとが透きとおっていって、水や月などと一体化しているようです。
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