寺山修司「かずこについて」…全文を解説付きで紹介します。

寺山修司の第一作品集『われに五月を』より、「かずこについて」という連作詩を紹介します。

この詩は7篇の短い詩で構成されています。

今回は全文を引用すると共に、寺山修司がこの詩において何を希求したのか考えてみます。

寺山修司「かずこについて」

かずこについて

  雲に

呼ぶということはない 捨てることだとだれかが言う

夏休み
世界からかえろうとするたびに
浅間山の白いけむりが空にむせて
ぼくは
何べんもかずこを捨てた

  麦藁帽子

かずこに時間はなくて
時間がかずこである
とんでゆく青空に
雲はスケッチブックです
ぼくは立ちあがる

  雲雀と

ぼくがいなくなるとかずこは
さみしい顔をするだろうか

ぼくはいなくなってみよう
ぼくはいなくなる
さあ、ぼくはいない

夕暮
世界がかずこに押しかける
すると かずこもいない

  

どの質問にも答えるな
そうしてどの質問にも答えよ

(たとえば過ぎてしまった雲の日のように)

かずこの目は
その木蔭でやさしく
ぼくを解析する

  木蔭では

初夏
おまえと忘れごっこをはじめる
(世界を忘れる)
(海は忘れない)

(そうだ 時間を忘れる)
(忘れることを忘れる)
小鳥があんまりはるかなので
やがて
おまえはおまえを忘れる
ぼくはぼくを忘れる
おまえはおまえを……
ぼくは……

  距離

世界はかずこのそとにある
地平は麦藁帽子の下にある

かずこは飛びたいという
ぼくは空の青さを計量する
すると
あかるさが世界を遠ざけるのだ
世界が去ってかずこが残る

八月 永遠というカンバスたち
かずこ 雲に乗る

  十九才の

ぼくたちがいるならば
世界は不在でありましょう

いま時間は小川の声たちとなり
この丘は
風だけが知っている

空を歌うな
かずこ あそこへふたりで帰ろう

遠さがやさしく青いので
不在のかなたに さあ

麦藁帽子は脱ぎすてて

駆ける

詩の鑑賞と解説

「かずこ」とは誰か

「かずこについて」では、7篇全てに「かずこ」という少女が登場します。

「かずこ」がどのような容姿で、どのような性格をしているのか。「かずこ」に関する描写はありませんが、特別な存在であることは、文中の至るところから感じられます。

簡単に言ってしまえば、恋人だと思うのですが、そんな有り触れた名称で片付けてしまいたくないくらい、純粋にすきな女の子なのでしょうね。

小川太郎の著書『寺山修司 その知られざる青春』によると、「かずこ」にはモデルがいるそうです。

寺山修司の早稲田大学での同級生です。(ただし寺山修司は、ネフローゼで長期入院したために、一年足らずで退学しています)

生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされ、ずっと病院のベッドに縛られる生活を強いられていたため、残念ながら実在の和子さんとの恋は、寺山修司の一方的な片想いで終わっています。

ただ、この詩を読むにあたって、モデルにとらわれる必要はないと思うんですね。

先ほども触れたとおり、「かずこ」については詳しい描写がありません。無色透明で、誰の心にも通じるような存在です。

立原道造と谷川俊太郎からの影響

寺山修司も実在の和子も、立原道造の詩を愛読していました。

「立原道造が好き」という二人の共通点からから、「かずこについて」でも道造の詩の気配がちらほら感じられます。

たとえば、「かずこについて」の冒頭である「雲に」では、「浅間山の白いけむりが空にむせて」という詩行があります。これは立原道造のソネット「はじめてのものに」を連想させます。

「はじめてのものに」の全文は、以下の記事をご覧ください。
↓↓↓

立原道造「はじめてのものに」が謎めいて魅力的な理由
立原道造の詩「はじめてのものに」は、どこか謎めいていて、人を惹きつける魅力があります。 さっそく以下で全文を引用し...

(ちなみに立原道造は毎年夏になると、軽井沢へ避暑に出かけました。彼のソネットの多くは、この清涼な地からイメージを得ています)

でも、「かずこについて」に関して言えば、立原道造のソネット以上に、谷川俊太郎の「六十二のソネット」から影響を受けているのではいかと思います。

(奇しくも谷川俊太郎も、北軽井沢で「六十二のソネット」のほとんどの作品を書き上げています。余談ですが、谷川俊太郎も立原道造から影響を受けたと、山田馨との共著『ぼくはこうやって詩を書いてきた』で語っています)

寺山修司と谷川俊太郎は友達でした。

「六十二のソネット」が出版されたのが、1953年。

寺山修司と谷川俊太郎の交流がはじまったのが、1954年。

「われに五月を」が出版されたのが、1957年。

寺山修司が谷川俊太郎の「六十二のソネット」を見て、「かずこについて」を書いた可能性は充分考えられます。

「空」「世界」「呼ぶ」「いなくなる」等々…。

「六十二のソネット」と「かずこについて」では、上記のような共通するキーワードがいくつか見られます。

無我となり世界と一体になる

さて、寺山修司の「かずこについて」と、谷川俊太郎の「六十二のソネット」は、結末にある共通点があります。

一言で表すなら「無我」。主人公たちが我を忘れて、空や世界と一体になるような感覚です。

「六十二のソネット」の62番を引用して、比較しますね。

  62

世界が私を愛してくれるので
(むごい仕方でまた時に
やさしい仕方で)
私はいつまでも孤りでいられる

私に始めてひとりのひとが与えられた時にも
私はただ世界の物音ばかりを聴いていた
私には単純な悲しみと喜びだけが明らかだ
私はいつも世界のものだから

空に樹にひとに
私は自らを投げかける
やがて世界の豊かさそのものとなるために

……私はひとを呼ぶ
すると世界がふり向く
そして私がいなくなる

「六十二のソネット」は、ある意味恋愛詩と言えます。

「六十二のソネット」において、「ひと」は女性であり、世界でもあります。「私」は「ひと」に自らを投げかけることによって、「私」はいなくなり世界と一体になります。(前述の共著『ぼくはこうやって詩を書いてきた』で、このことについて詳しく語られています)

それに対して、「かずこについて」では、「ぼく」が「かずこ」に対して、不在のかたなへ帰ろうと呼びかけて、駆けていきます。「空を歌うな」と制していることから、言葉のない世界をめざしているようにも感じられます。

「六十二のソネット」では「私」が「ひと」に自らを投げることによって、「かずこについて」ではふたりで不在のかなたへと駆けようとすることで、無我に至る点はとても似ています。

まとめ

寺山修司「かずこについて」を、立原道造や谷川俊太郎の詩との共通点を挙げながら、読み進めてみました。

自分を失くしてしまうほど恋したり、好きな人が世界そのものに思えるのは、十代の多感な時期ならではの感覚だと思います。

この記事を書く私にとっては、憧れと懐かしさを起こさせる作品です。

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