中原中也の原体験の現れと言えそうな詩「少年時」。
詩人としても、ここから走り出そうとしている自負心が感じられます。
さっそく全文を引用しますね。
少年時
黝い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡っていた。地平の果に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆のようだった。麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だった。翔びゆく雲の落とす影のように、
田の面を過ぎる、昔の巨人の姿――夏の日の午過ぎ時刻
誰彼の午睡するとき、
私は野原を走って行った……私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めていた……
噫、生きていた、私は生きていた!
中原中也「少年時」~鑑賞・解説~
「少年時」は、中原中也の第一詩集『山羊の歌』に収められています。
第二章の題も「少年時」で、第二章はこの「少年時」の詩からはじまることから、中也がいかにこの詩を重視していたかが分かります。
「少年時」と題する詩のノートも残されています。
希望と諦め。生と死。…夏の二面性
私がこの記事を書いているのは、この詩と同じ夏の午過ぎです。
中也がどのような気持ちでこの詩を生み出したか知りたくて、先ほど外へ飛び出してみました。
気温は37度。体温以上に暑いです。
太陽や青空はまぶしくて、生命力に満ちあふれているけれども、人の気配はまったくなく、植物はぐったりと息をひそめています。
こんな暑さのなか走るとなると、得体の知れないくらい孤独です。「死んでしまうのではないか……」という気さえ起きてきます。
希望と諦め。生と死。
夏という季節では、そうしたものが表裏一体なのだと、身をもって感じました。
ギロギロする目で諦めてゐた…中也の原体験
「少年時」は、印象的なフレーズで締めくくられています。
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫、生きてゐた、私は生きてゐた!
ギロギロしながら諦めているなんて、ずいぶん矛盾していますが、とても納得のいく表現です。
生きることは、死に向かうこと。いつかは滅びると観念しつつも、いのちを燃やすこと。
それは夏が終わりに向かって、眩しく輝くのと似ています。
詩人の中村稔さんは、著書「中也を読む」において、「中原はこの作品にその詩心の原型をみていたのではないか」と語っています。私もそのことに同感です。
中也にはこうした思いが原体験としてあり、これを主題としてさまざまな詩を生み出したに違いないです。
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