新川和江「比喩でなく」

たとえば、とても好きな小説や漫画があって、それを親しい人にお勧めしようとしたとき、言葉に迷ったことはないでしょうか。

その良さを上手く説明できなくて、「もう、とにかく読んでみて!」と、そのまま本を手渡すだけで精いっぱいということもありますよね。

これから紹介しようとしている、新川和江さんの詩「比喩でなく」も、私にとってまさにそんな愛しい作品のひとつです。

まずは以下に全文を引用いたしますね。

新川和江「比喩でなく」

比喩でなく

水蜜桃が熟して落ちる 愛のように
河岸の倉庫の火事が消える 愛のように
七月の朝がえる 愛のように
貧しい小作人の家の豚が痩せる 愛のように

おお
比喩でなく
わたしは 愛を
愛そのものを探していたのだが

愛のような
ものにはいくつか出会ったが
わたしには摑めなかった
海に漂う藁しべほどにも このてのひらに

わたしはこう 言いかえてみた
けれどもやはり ここでも愛は比喩であった

愛は 水蜜桃からしたたり落ちる甘い雫
愛は 河岸の倉庫の火事 爆発する火薬 直立する炎
愛は かがやく七月の朝
愛は まるまる肥える豚……

わたしの口を唇でふさぎ
あのひとはわたしを抱いた
公園の闇 匂う木の葉 迸る噴水
なにもかも愛のようだった なにもかも
その上を時間が流れた 時間だけが
たしかな鋭い刃を持っていて わたしの頬に血を流させた

詩の鑑賞と解説

愛そのものを伝え合うことはできない

愛そのものを伝え合うことができない切なさを、私は「比喩でなく」という詩から感じます。

たとえば人に愛情を表現したいとき、または人から愛情を受け取りたいとき、

「この心をそのまま伝え合うことができたら、どんなにいいのに!」

と感じたことはないでしょうか。

私はあります。この「比喩でなく」という詩の良さも、文章を介さずに純粋な気持ちだけを伝えることができれば、どんなにいいかと思います。

ところが人間である以上、それは叶わない夢です。

物や行動や言葉などを通して、つまりワンクッションを置いて、愛を伝え合うことになります。愛を何かに喩えるのも、まさにそうです。

ただその過程において、気持ちが途中で薄まったり、微妙に変化してしまうような気がするんですよね。それはもどかしいことでもあるし、切ないことでもあります。

どんなに愛しい人であっても、心を完全には共有できないので、かえって寂しさをつのらせてしまうこともあります。

「比喩でなく」の詩のように、恋人から熱い口づけを受けて、抱き合ったとしても、お互いの全てを伝え合うことはできません。

この世は全ては無常である

この詩には、蔭の主役がいます。

それは「時間」です。

全てのものに対して時間は平等に流れていきます。

この詩に出てくるような、水蜜桃や倉庫の火事も、七月の朝も豚も、そのまま在り続けることはできません。衰退し続けることも、繁栄し続けることもできないです。

人間の心も、一瞬たりとも止まることなく変化し続けます。一定に見える感情があったとしても、微かな揺れはあるはずです。

だから、今この瞬間に感じたことを、詩に書きとめようとしても、言葉にした途端に気持ちがすでに流れていることもあるんですよね。

まとめ

  • 愛そのものは伝え合えないこと。
  • この世は全て無常であること。

そのことによる切なさや寂しさが、「比喩でなく」という詩から滲み出ているように思います。

ただ、この三つのことに絶望したくはないです。

少なくとも、比喩の力を否定するつもりはないです。

言葉には言霊があります。自分の心を言葉にすることで、言葉に全く新たな命が吹き込まれ、読む人の心に自分が思ってもみなかった科学変化を起こすこともあるでしょう。

そのことを信じて、詩人は心を何かに例えて、詩を書き続けるのかもしれませんね。

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