寺山修司の詩歌について語るのに、「海」は欠かせないキーワード。
今回は『寺山修司少女詩集』(角川文庫)より、海にまつわる詩を3つ紹介します。
少女詩集は、イラストレーターの宇野亜喜良とコンビを組んで、新書館発行のフォア・レディースのシリーズで発表されたものです。1960年代~70年代の少女たちは、このシリーズを夢中になって読んだそうです。
少女詩集の文庫本は、現在も入手可能です。海の詩をはじめ、花や猫や宝石の詩など、きらめく言葉であふれています。
一ばんみじかい叙情詩
一ばんみじかい叙情詩
なみだは
にんげんのつくることのできる
一ばん小さな
海です
「にんげん」は元々、海から生まれました。
魚類、両生類、爬虫類、鳥類・哺乳類と進化して、人間が陸地を歩行するようになってからも、体内には約60%の水が保たれています。
涙が少し塩辛いのは、人間が海から誕生した名残とも言えます。(そもそも羊水も、海の成分に似てると言われています)
さて、そんな「にんげん」のなみだが、一ばん小さな海……だなんて、詩的ですね。
大きな海をルーツとする涙も、大地にこぼれて蒸発して、やがて雨となって大きな海へと還っていくのでしょう。
感情が高ぶったときに涙が出たり、その涙を元とした詩を生み出せるのは、数多いる生物のなかでも人間だけ。そのことに、特別な意味を感じます。
ところでアンデルセンの有名な言葉に、「涙は人間がつくるいちばん小さな海」という言葉があります。
寺山修司の抒情詩、そのまんまですね(笑)アンデルセンは19世紀、寺山修司は20世紀に活躍しているので、おそらく寺山修司が引用したのでしょう。
かなしくなったときは
かなしくなったときは
かなしくなったときは
海を見にゆく古本屋のかえりも
海を見にゆくあなたが病気なら
海を見にゆくこころ貧しい朝も
海を見にゆくああ 海よ
大きな肩とひろい胸よどんなつらい朝も
どんなむごい夜も
いつかは終る人生はいつか終るが
海だけは終わらないのだかなしくなったときは
海を見にゆく一人ぼっちの夜も
海を見にゆく
さきほど、人間は海から生まれたと書きました。
まさに海は母なるもの。一日も、一生も、いつかは終わるけれど、海だけは終わることなく、わたしたちをお母さんのように包み込んでくれるのでしょう。
海を見に行きたくなるのは、海に帰りたいせいもあるからかもしれません。
ところで、寺山修司の詩には、「母」も数多く登場します。幼少時に母と生き別れた経験があるからでしょうか。
「五月の詩」について書いた記事でも、そのことについて触れています。もしよかったら、ご覧くださいね。

ひとりぼっちがたまらなかったら
ひとりぼっちがたまらなかったら
私が忘れた歌を
だれかが思い出して歌うだろう
私が捨てた言葉は
きっとだれかが生かして使うのだだから私は
いつまでも一人ではない
そう言いきかせながら
一日中 沖のかもめを見ていた日もあった
肩肘張らず、着飾らず、本音が滲み出てしまったような詩。
寺山修司の作品のなかには、「本当にー!?」と思わず突っ込みを入れたくなるくらい、虚構性に満ちたものもあるのですが、この詩は違います。
これはきっと本当のことだと感じさせるような、リアリティがあります。
「いつまでも一人ではない/そう言いきかせながら」ということは、「私」はずっと一人でいるということですよね。
それでも、「私」が忘れた歌をだれかが思い出し、「私」が捨てた言葉をだれかが生かすことで、「私」はだれかとつながることができます。
人とつながるその時を信じて、ずっと海にいたのでしょうね。
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