谷川俊太郎『東京バラード、それから』より~空の詩3選

谷川俊太郎さんの数多い詩集のひとつに、『東京バラード、それから』があります。

2011年当時から遡ること約40年前に書かれた連作「東京バラード」と、現在をつなげる本を作ろうという試みから、生まれてきたアンソロジーです。

1952年出版の『二十億光年の孤独』から、2009年出版の『詩の本』まで、28冊の詩集のなかから、東京にまつわる詩をピックアップ。さらに、1950年代から60年代に自ら撮影された、東京のモノクロ写真を組み合わせています。

ページをめくる人をタイムトリップへと誘う、不思議な詩集です。

今回は詩集『東京バラード、それから』から、空にまつわる詩を3つ選んでお届けします。

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an epigraph(東京バラード)

東京では 空は
しっかり目をつむっていなければ 見えない

東京では 夢は
しっかりと目をあいていなければ 見えない

出典:『うつむく青年』1971年

連作「東京バラード」の序詩です。詩集『東京バラード、それから』の巻頭を飾る詩でもあります。

この詩のとおり、東京はパラドックスに満ちた街ですね。

本来なら空は目をあいていなければ見えないし、夢も目をつむっているときに見るものです。ところがこの詩は、それとは真逆のことを語っています。

このパラドックスが妙に腑に落ちるのが、東京の不思議なところ。

この詩の紹介文をどう書こうか考えていた矢先、渋谷のスクランブル交差点に足を運ぶ機会がありました。「世界で最も有名な交差点」と言われるだけあって、人の行き来が目まぐるしいです。

両目からあふれそうな空なんて、もちろん見えません。高層ビルにくし刺しにされそうな、どこか窮屈そうな空です。それでもこの詩を思い出して、交差点の片隅で目をつむっていると、空気の微かな動きを感じました。

肌を撫でるそよ風。体内をかけめぐる酸素。

「あ。本当だ。目をつむると、私の中に空が見える……」と実感しました。

それにしても、たくさんの人です。東京のひとつの交差点ですらそう感じるのだから、東京全体ではどれほどの人がいるのでしょう。

このような街で、夢をつらぬいて生きていくことは、大変です。

だからこそ、目をしっかりと見開かなければ、夢を見出せないのかもしれませんね。

新宿哀歌

新宿哀歌

まっすぐ歩くと
すぐ青空につきあたってしまうから
あの角を曲ろう そして
ダウン・タウンへまぎれこむんだ
ほんとうの花はただで
土からひっこ抜くことができるけれど
造花はお金で買わなきゃならない
それが哀しいのか楽しいのかさえ
分らなくなったら
なんでもいい
知っている歌をくちずさむんだ
一億年前にはここにも
象がいたかもしれないのだし
一億年後にはまた
象がもどってきてるかもしれない
そんなことを考えると
なんだか美しすぎるような気がする
あの窓のひとつにあなたがいるなんて
硝子の扉の前に立てば硝子の扉は
音もなく平等にみんなを呑みこむ
もう「開け胡麻」と
呪文をとなえることもないのだ
なにもかも透き通ってしまうから
せめて残された欲望にむかって
あの角を曲がろう

(後略)

出典:『日々の地図』1982年

「東京バラード」の序詩と同様に、「新宿哀歌」もパラドックスに満ちていますね。

パラドックスというよりも、むしろ、ひねくれているかも(笑)ただ、世間から見ればへそ曲がりのように見えても、世界に対する矛盾や違和感には、正直に動いているような気がします。

本物の花が無料で、偽物の造花が有料の世界。

たしかに、「あれ?」って思いますよね。

硝子の扉が、みんなを平等に呑みこんでいく時代なのに、そこには見えない格差が広がっています。

さっき王女が通り過ぎた片隅で
いま家出娘が途方にくれている
きみ 退屈の値段を知ってるかい
退屈はダイヤモンド一個で買えるよ

「新宿哀歌」には、以上のような言葉もあります。

本来なら無料のはずの退屈ですら、ダイヤモンド一個なければ買えない時代に、私たちはいるのかもしれません。

(仕事や家事を抱えている人にとっては、大金を叩かなくては、退屈するほどの自由は手に入らないのではないかと実感しています。なのでダイヤモンドのくだりは、ジョークとは思えないです)

億年単位の歴史から見れば、東京の歴史はわずか一瞬。そんな瞬くほどの時のはざまで、私たちは、迷路のなかをウロウロするように生きているのかもしれないです。

目に見えぬ詩集

目に見えぬ詩集

たとえばーー
飛んでいる蝶を指して
この蝶をあなたに捧げます
と云うだけでいいのだ

あるいはまた―ー
澄みきった秋空を見あげて
この空は私たちのもの
と宣言するだけでいいのだ

それとももっとつつましく―ー
ラッシュアワーの街の真中に立止まり
黙って潮騒に耳をすます
それだけのことでいいのだ

目に見えぬ詩集の頁を
開くためには

出典:「祈らなくていいのか」『日本の詩人17 谷川俊太郎詩集』1968年

本当は蝶を誰かに捧げることはできないし、秋空を私たちのものにすることはできません。ラッシュアワーの街中にも海はありません。

あらゆる物には自由があり、一瞬も留まることなく移り変わっていくので、「所有」することは叶わないです。

それでも、心を「共有」することは可能だと思います。

蝶や秋空に出会ったときの感動を言葉にすることで、誰かとその想いを分かち合うことができます。

街中で黙って耳をすますことで、数百年前にその場で高鳴っていた潮騒を、古の人たちと時を超えて聴き合うことができます。

言葉にすること、沈黙すること。つまり、詩を感じることで、目に見えぬ詩集の頁が開くのかもしれないです。

人それぞれ、物の感じ方は微妙に異なるでしょう。それでも、詩という一点で、心が通じ合っているはずです。

目に見えぬ詩集とは、心を共有できる時空間のことなのかもしれません。

 

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