私の耳は貝の殻…ジャン・コクトーの詩を、堀口大学の名訳で。

これから海にちなんだ、とても美しい短詩をひとつ紹介します。

私の耳は貝のから
海のひびきをなつかしむ

この短詩の作者は、フランスの芸術家である、ジャン・コクトー

それを堀口大学が訳して、訳詩集『月下の一群』に収め、日本中の人に広めました。

これから、短詩「耳」の作者であるジャン・コクトーと、翻訳者である堀口大学の人物像に触れると共に、この短詩の魅力について語りますね。

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「耳」(作者:ジャン・コクトー/翻訳者:堀口大学)

作者と翻訳者のプロフィール

作者:ジャンコクトー(1889-1963)

ジャン・コクトーは、パリ近郊の小さな町であるメゾン=ラフィットで生まれました。

8歳の時に父親を亡くしますが、母親と祖父に育てられました。

20歳のときに、詩集『アラディンのランプ』を自費出版。それ以降、詩人、小説家、劇作家、映画監督として活躍し、ピカソやモディリアーニや藤田嗣治など、モンパルナスの画家たちとも交流しました。

そのあまりの多彩な仕事ぶりに、「芸術のデパート」と称した人もいるくらいです。

1936年に世界一周旅行した際は、日本にも立ち寄り、堀口大学の案内のもと、相撲や歌舞伎を鑑賞しました。

1945年に映画『美女と野獣』の監督をしていますが、この作品のメイクは歌舞伎から影響を受けたという説もあります。

翻訳者:堀口大学(1892-1981)

堀口大学は、東京の本郷で生まれました。

大学という名前は、生まれた時に父親が大学生であったことと、生まれた場所が東京帝国大学の近所だったことに由来しています。

4歳の時に母親を亡くしますが、祖母に育てられました。(若くして片親を亡くしたことは、ジャン・コクトーと同じですね)

幼少期は新潟県の長岡で過ごしています。

1911年(明治44年)から外交官である父に伴われ、10数年間を世界各地で暮します。

1917年(大正6年)に帰国してからは、詩作や翻訳や評論を数多く手がけます。

1925年(大正14年)に刊行した訳詩集『月下の一群』は、中原中也や三好達治など、当時の文学青年に多大な影響を与えました。

詩の鑑賞と解説

もう一度「耳」を、原詩とともに引用しますね。

私の耳は貝のから
海のひびきをなつかしむ

Cannes V

Mon oreille est un coquillage
Qui aime le bruit de la mer.

「カンヌ」という6篇の短詩から成る作品の、5番目の作品が原詩です。

1920年に刊行された詩集『ポエジー』に所収されています。

鏡のなかの鏡のような多重構造

では、堀口大学の訳詩を鑑賞してみましょう。

耳から貝へ、貝から海へ、海から潮の響きへ、潮の響きから元の耳へと、イメージが繋がっていくのが感じられませんか?

どこか、鏡のなかの鏡を見ているようです。

私の耳である貝殻の外に、大きな海が背景としてひろがっていると思ったら、それは実は記憶で、貝殻である私の耳の奥に、小さな海としてひそんでいるのですね。

小さな海の貝殻の奥には、もっと小さな海がひそみ、もっと小さな海の貝殻の奥は、もっともっと小さな海がひそみ…という風に、詩はメビウスの輪となって延々と続いていきそうです。

「私の耳は貝の殻」というメタファーは、視覚的にも楽しめますし、「海の響」というイメージは、聴覚的にも楽しめます。

せりもち式の方法で構成

この詩について、堀口大学は次のように述べています。

建築術の所謂せりもちの方法で構成された短詩の賞嘆すべきレユシットだ

「せりもち」というのは、素材同士がお互い支え合うことによって、堅固な建築物を構成する方法です。

この詩では、「耳」「貝の殻」「海の響」という素材が重なり会うことで、詩の世界を作り上げています。

その試みを、「レユシット」(フランス語で成功の意)と褒めたたえているのですね。

【参考】「夏の思ひ出」(作者:堀口大学)

堀口大学は、本歌取りならぬ本詩取りをして、次のような佳作も生み出しています。

夏の思ひ出

貝がらに、海の響が残るやうに、
私の耳の奥に、彼女の声が残って、
アドヴァンテエジと叫び、
ジュウス、アゲンと呼ぶ。

十六ミリに、過ぎた日の仕草が残るやうに、
私の目の奥に、その夏の身振が残って、
ヨツトのやうに傾いた、白いあなたが見え、
行き来するボオルが見える。

貝がらの海の響のやうに、
十六ミリの過ぎた日の仕草のやうに、
私の耳に、その夏の声が残り、
私の瞳に、その夏の身振が残る。

ジャン・コクトーの訳詩を知っている人なら、「あ!」っと思わず声を上げたくなったでしょうね。

「貝がら」「海の響」「私の耳」と、原詩を連想させるような言葉を並べることで、「夏の思い出」は奥行きを深めています。

原詩は鏡のなかの鏡のように多重構造なので、そこにこの詩を照らし合わせると、まるで万華鏡を覗き込んでいるかのようですね。

もちろん、この詩には「十六ミリ」「ヨツト」といった、オリジナルのイメージも加わっているため、単なる本詩取りでは終わっていません。

こういった試みは、面白いですね。

 

※こちらの記事で、ジャン・コクトーの「シャボン玉」を紹介しています。
もしよかったらご覧くださいね。

コメント

  1. もぎゃー より:

    ジャン・コクトーがすごすぎる

    • kotoba より:

      もぎゃーさま
      はじめまして。コメントありがとうございます。
      ジャン・コクトー、すごいですよね。

  2. 中学生 より:

    とてもわかりやすかったです

  3. 匿名 より:

    天才の感性は俺らにはわからん

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