上田敏(1874-1916)の名訳詩集『海潮音』には、「わすれなぐさ」という訳詩があります。
あの青く可憐な花を思わせるような、ささやかな詩です。
元詩はドイツの詩人、ヰルヘルム・アレント(Wilhelm Arent 1864-1913)によるものです。(ウィルヘルム・アレントと読みます)
さっそく引用しますね。
わすれなぐさ
ながれのきしのひともとは、
みそらのいろのみづあさぎ、
なみ、ことごとく、くちづけし
はた、ことごとく、わすれゆく
わすれなぐさ(詩:ヰルヘルム・アレント/訳:上田敏)
詩の注釈と大意
「わすれなぐさ」は、現代の私たちから見ると、少しだけ意味が取りづらいところがあるかもしれません。簡単な注釈と大意を書き加えますね。
注釈
ひともと:草や木などの一本。
みづあさぎ:水浅葱。やわらかい青緑。
大意
「わすれなぐさ」は、題も本文も全てひらがなの詩です。漢字を当てはめると、以下のとおりになります。
御空の色の水浅葱、
波、ことごとく、口づけし
はた、ことごとく、忘れゆく
意味としては、以下のような感じになります。
波はことごとく花に口づけても、流れ去るそばから、ことごとく忘れゆく…
詩の鑑賞と解説
日本の叙情になじむ詩
「忘れな草は外来種だけれど、日本の風景になじんで見える」
と、先日あるラジオ番組で、パーソナリティーが仰っていました。
忘れな草はヨーロッパ原産で、明治時代に渡来しましたが、生態系に悪影響を及ぼすことなく、日本の自然に溶け込んでいます。
私はその話をラジオで耳にしたとき、上田敏の「わすれなぐさ」の詩を思い出しました。
この詩も同じく明治時代に、ドイツ語から日本語に訳されて広まりましたが、日本の叙情詩と並べても違和感がありません。
上田敏の訳が素晴らしいからでしょうね。七五調の、気品のある訳です。
何よりもこの詩に、東洋に古くからある無常観が流れているから、日本人の心に響きやすいのでしょう。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
日本中世文学の代表的な随筆である、鴨長明の『方丈記』の冒頭です。
「わすれなぐさ」の詩の「流れ」も、絶えることはありませんが、元の水でもありません。「波」は留まることなく、忘却の彼方へと向かっているのでしょう。
忘れな草の伝説
ところで「忘れな草」はなぜ、その名が付けられたかご存知でしょうか。
ウィルヘルム・アレントの母国であるドイツの、悲恋伝説から端を発しています。
昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲く花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りました。ところが足を滑らせて、川に溺れてしまいます。
ルドルフは最後の力をふりしぼって、手につかんだ花を、彼女に向かって放り投げます。
”Vergiss-mein-nicht!“(僕を忘れないで!)
そう言葉を残して、ルドルフは亡くなります。
残されたベルタは、ルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にします。
この伝説から、忘れな草はドイツでは”Vergiss-mein-nicht“ と呼ばれ、英語も直訳の” Forget-me-not”です。
日本では明治時代に植物学者の川上滝弥によって、「勿忘草」「忘れな草」と訳されました。
信時潔や北原白秋にも影響
さて、上田敏訳の「わすれなぐさ」に話を戻しますね。
この詩は慎ましい作品ですが、他の作家や芸術家にも影響を及ぼしています。
大正・昭和期の作曲家である信時潔は、この詩に曲をつけました。
北原白秋は詩選集「わすれなぐさ」のはしがきにおいて、この詩を全文引用しています。
ささやかながらも忘れられない魅力があったから、曲をつけたり、自著で引用したのでしょうね。
時がどんなに流れても、忘れ去られたくない叙情詩です。
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