三好達治の「雪」の詩をご存知の方は、多いのではないでしょうか。
教科書にも載せられていますし、どこかで目にしたことがあるかと思います。
さっそく引用いたしますね。
雪
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
たった二行の短い詩。しかも日常で使うような、わかりやすい言葉です。
だからこそ親しみやすく、味わい深く、自由に想像力をふくらませることができます。
三好達治「雪」
「雪」の詩は自由に解釈していい
三好達治の「雪」をご覧になると、どのような情景が思い浮かびますでしょうか。
太郎や次郎の安らかな寝顔や寝息、布団の温もり、そして屋根にふりつもる真っ白な雪……。
書かれている言葉が短いから、書かれていない部分をどこまでも自由にイメージすることができますね。どの詩もそうですが、「雪」の詩は特に、読んだ人が感じたままに味わうのがいちばんです。
実はいうと、私はこの詩を学校の授業で初めて習ったとき、この詩を好きになれませんでした。先生が求める「正解」に沿って、読まされている気がしたからです。
私がこの詩の感想を先生に伝えたところ、先生の顔がみるみる曇っていったのを、今でもはっきりと覚えています。
当時の私のように、この詩をどのように読んだらいいか迷ったり、正しい答えを求めてしまう人は、意外といるのではないでしょうか。
そもそも、こんな簡単な言葉が詩なのかと、疑問に感じる人がいたっておかしくありません。
でも、安心してください。
詩は読まされるものでなくて、読むものです。
それは単に目を通すという意味ではなく、自分の感覚や想像力におまかせするという意味です。どう解釈しようと、それはあなたにとって全て「正解」です。
「そう言われても、三好達治の雪の詩を、どう読んだらいいかさっぱり分からない……」
というあなたに、私の感想をお伝えいたしますね。何かの参考になれば嬉しいです。
太郎や次郎を眠らせたのは何か?
三好達治の「雪」を、もういちど引用します。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
この詩は「太郎を眠らせ」「次郎を眠らせ」と言っているところに、詩情があると思います。
なんでふつうに「太郎が眠り」「次郎が眠り」と言わないのか。
「眠らせる」ということは、眠らせる存在があるということ。
この存在なしに、人間の子どもが雪のなか安心して眠れるわけがありません。とても大きな何かに守られて、子どもたちが眠っていることが分かります。
さて、太郎や次郎の眠りをあたたかく守っている存在として、「お母さん」「家」「雪」などが思い付きます。それぞれ説明いたしますね。
お母さん
お母さんは我が子が眠らせるために、温かな布団を用意します。横たわる子の小さな肩を、優しくトントンと叩いたり、子守唄をささやくこともあります。
子どもがいる人にはピンと来るかと思いますが、子どもを眠らせることは結構大仕事です。特に雪が降って興奮しているような子どもを、落ち着かせて、眠りにつかせるまでには、相当根気がいります。
私はこの詩を読むと、お母さんの大らかで優しい眼差しが感じられます。
家
家があるから、子どもはもちろん、人間は雪の夜でも眠りに落ちることができます。
家というのは屋根をはじめ、柱や壁や床、寝具もそうです。
この詩が書かれた昭和初期には、電気ストーブやエアコンなんてありませんでしたから、暖房は火鉢が主流でした。暖かな部屋で子どもを眠らせるためには、火の元の管理をする必要もあります。(おそらく、お母さんのような大人がそれを行っていたのでしょう)
室内に満ちる温もりも、太郎や次郎を眠らせていると考えられます。
雪
雪の夜はことに静かです。雪がしんしんと降り積もる音は、波音のように心地よく、深い眠りに誘ってくれそうです。
この詩に描かれている雪は、冷たくとも温かく、太郎や次郎の屋根に優しく降り積もっているように感じられます。
お母さんや家が近景で、身近なものであることに対して、雪は遠景で、限りなく広がっていく景色を連想させます。
太郎と次郎の固有名詞
三好達治の「雪」が素晴らしいところは、「太郎」「次郎」と、子どもたちを固有名詞で呼んでいるところです。
「子どもを眠らせ」と単にいうのでなく、「太郎を眠らせ」「次郎を眠らせ」ということで、男の子たちの寝顔や体つき、そして起きているときの個性まで、ありありと想像できそうです。
「太郎」「次郎」は、日本人にとって親しみのある名前であることから、隣近所にいる子どものようにも感じられるし、どんなに遥かな町にもいそうな子どものような気がします。
「太郎」「次郎」という名前から、この二人は共に住む兄弟なのか、別々に住む友達なのか、想像するのもまた楽しいですね。
まとめ
三好達治の「雪」について、紹介いたしました。
「雪」はわずか二行の短い詩であることから、自由に想像をふくらませやすいこと。
そして、登場人物の太郎や次郎の眠りを守る、大らかであたたかな存在が感じられること。(お母さんや家、そして雪など)
太郎や次郎と固有名詞で呼んでいることから、男の子たちをより具体的に想像しやすいこと。
読めば読むほど、余白が心に響く詩だと思います。
コメント
まほし さん、
初めまして!唐澤と申します。
私が長く愛読しているメルマガに「毎朝お届けする水彩画」というのがありまして、今朝は「雪国の街」という絵で、その説明に「太郎を眠らせ・・・の詩を想い出しました」とあったので、あれは誰の詩だったかな?と思い、ググったところ、このサイトを発見して拝見している次第です。
まほしさんはどちらの出身でしょうか?
と言いますのは、昭和初期の冬の暖房は火鉢が主流だったと書かれておりましたが、終戦直後に私が生まれた長野県では、火鉢では間尺に合わないくらい部屋の中も寒いので、炬燵が主流だったから、地域によって違うのだと思ったために、お聞きしています。
私はほぼ毎日、花の水彩画を書き、ブログ「e俳画@浅草」にアップしていますので、お暇な折に、覗いてみて下さい。http://sohmokutoh.blog9.fc2.com/
唐澤さま
初めまして。コメントありがとうございます!
私は生まれてからずっと、関東にいます。(あまり雪が降らない地域です)
小さな頃は、電気コタツや灯油ストーブで暖を取っていたので、火鉢にはなじみがありませんでした。
三好達治の第一詩集『測量船』(昭和5年刊行)に、「雪」の詩は収められています。
じゃあ、当時の暖房はどのような物が使われていたのだろう?そう思って調べてみたところ、行き着いた答えが火鉢でした。
>終戦直後に私が生まれた長野県では、火鉢では間尺に合わないくらい部屋の中も寒いので、
>炬燵が主流だったから、地域によって違うのだと思ったために、お聞きしています。
「雪」の詩が書かれたのは戦前なので、地域差よりもむしろ年代差かと思います。
ところで長野ご出身なのですね。私も雪の季節の長野に行ったことがありますが、とても寒かったのを身に沁みて覚えています。
ブログも紹介してくださって、ありがとうございます!
とても素敵な水彩画ですね。お花の絵はもちろん、俳句も味わいがあっていいと思いました。
ご回答、有難うございます。
また、ブログを覗いて頂いたようで、有難うございます。
長野の冬がどんなに寒いかということを表現するのはなかなか難しいのですが、江戸っ子の亡き妻と結婚し、東京で結婚式を挙げたので、長野の親戚を招待すると50人とかになるので、2度目の披露宴を長野で行ったのが、12月の末でした。
冷え性だった妻は、炬燵に足を入れて寝るスタイルを大変気に入っていましたが、翌朝、母から、部屋を掃除して!と言われて、掃除機を取り出そうとして、筒に素手で触ったら、くっついてしまって、びっくりしていました。手の平の僅かな水分が掃除機の筒の寒さで瞬時に凍り、手がくっついてしまったのです。それくらい室温も低いということです。今頃の外気温は低い日でマイナス10度くらいですから部屋も朝方はマイナスになる日もある訳です。
それ以来、妻は友達に長野の寒さを表現する時「掃除機に触ると手がくっついてしまうくらい寒い」と言っていました。
唐澤さま
ご返信ありがとうございます。
長野は「掃除機に触ると手がくっついてしまうくらい寒い」のですね!
奥様の絶妙な喩えに、いかに寒いか実感を持って伝わってきました。
貴重な体験談を投稿してくださり感謝します。
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