山村暮鳥の詩は、明るくあっけらかんとしている詩が多いです。(晩年の詩は特に)
それなのに、読んでいるときゅっと心をつかまれて、泣きたくなることがあります。
これから紹介しようとしている、「雪」の詩もまさにそう。
雪
きれいな
きれいな
雪だこと
畑も
屋根も
まっ白だ
きれいでなくって
どうしましょう
天からふってきた雪だもの
いかがでしょうか。
こんなにわかりやすい詩なのに、訳のわからない切なさがこみ上げてきて、その気持ちの正体はそう簡単に表せそうにありません。
それを言葉にしようとすることは、まっ白な雪景色に黒い足跡を点々とつけてしまいそうな怖さがあるけれど、あえて挑戦してみました。
もしよかったらお付き合いくださいね。
山村暮鳥「雪」
作者:山村暮鳥について
まずは作者の山村暮鳥について、簡単にご紹介いたします。
出身地:群馬県
山村暮鳥は1884年(明治17年)に、現在の群馬県高崎市で生まれました。群馬の冬は厳しく、山には雪が降り、平野には空っ風が吹きすさびます。
北国生まれの詩人と、南国生まれの詩人では、同じ雪を描いてもリアリティが違いますが、山村暮鳥の場合は前者と言えるでしょう。
この「雪」の詩も、想像だけで描いているのでなく、雪の厳しさを知っているうえで言葉にしたと考えられます。
代表作:詩集『雲』
代表作は、最晩年の詩集『雲』。晩年といっても、 1924年(大正13年)に40歳の若さで亡くなられました。
詩集『雲』の序文に、こんな言葉があります。
詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。
だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。
今回ここで紹介している「雪」の詩は、『雲』の収録作品ではありません。それでも、ここに打ち明けているような思いで、この「雪」の詩をあらわしたのではないかと思います。
上手く書こうと考えないで、生まれてきた詩ということですね。
山村暮鳥の詩集『雲』については、こちらでも記事を書いています。
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詩の鑑賞のポイント
さて、「雪」の詩で心に響くのは、何といっても最後の三行でしょう。
きれいでなくって
どうしましょう
天からふってきた雪だもの
「天からふってきた雪」という発想は、山村暮鳥がクリスチャンゆえに湧き上がってきたのかもしれないです。
でも、それよりも、天性の雪をそのまま無邪気に喜んでいると捉えたいです。
畑も、屋根も、みんな人間が作ったもの。それに対して雪は、何者かによって作られたのではない、あるがままの存在と言えます。
畑や屋根が、きれいな雪に包まれることによって、本当はあるがままの天性の存在なのだと思い出します。いや、人間そのものが、天性の存在なのですね。
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