金子みすゞさんの、雪にまつわる詩を三編紹介します。
みすゞさんが生まれ育った山口県の仙崎は、冬は比較的暖かく、あまり雪は降りません。そのせいか、みすゞさんが雪をうたった歌はめずらしいです。
滅多に見られない雪に、みすゞさんはどのような想いを託しているでしょう。
積もった雪
積もった雪
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。中の雪
さみしかろな。
空も地面もみえないで。
みすゞさんの手にかかると、生きてはいない雪さえも、まるで友達のよう。
上の雪には「さむかろな」、下の雪は「重かろな」と呼びかけて、労わっています。
何といってもハッとさせられるのが、中の雪に「さみしかろな」と話しかけていること。
上の雪や下の雪のつらさには、気づく人も多いでしょうけれど、中の雪のさみしさには、誰もが気づけないものです。だからますます、中の雪は孤独でしょう。
中の雪にも温かな言葉をかけているところに、こちらも救われる思いです。
淡雪
淡雪
雪がふる、
雪がふる。落ちては消えて
どろどろな、
ぬかるみになりに
雪がふる。兄から、姉から、
おととにいもと、
あとから、あとから
雪がふる。おもしろそうに
舞いながら、
ぬかるみになりに
雪がふる。
「兄から、姉から、おととにいもと」…というのは、雪の兄弟姉妹たちのことでしょうか。
大家族でおもしろそうに舞うのは楽しい光景に見えますが、最後はぬかるみに落ちて消えようとしているのですね。
雪の兄弟姉妹たちは、自分がぬかるみになるのを知っているのでしょうか。それとも知らないのでしょうか。そして、雪にとってぬかるみになるのは、幸せな結末なのでしょうか。
そういう風に思いをめぐらせると、何ともいえない切なさを感じます。
雪に
雪に
海にふる雪は、海になる。
街にふる雪は、泥になる。
山にふる雪は、雪でいる。空にまだいる雪、
どォれがお好き。
空にいる雪は、降る場所を選べるのでしょうか?選べないのでしょうか?
この詩を読むと、そんな疑問が浮かび上がります。
海に生まれ変われる雪も幸せだし、山で雪のままでいる雪も幸せそう。
街で泥になる雪は、人間の靴にしみこんで旅に出るのでしょうか?それとも草木を育てる土になるのでしょうか?
何処にいても、その場で幸せに気づける人になりたいと、この詩を読むと思います。
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