中原中也の第一詩集『山羊の歌』より、「朝の歌」という詩を紹介いたします。
中也はこの詩によって「方針を立てた」と言います。それはどのような方針でしょう。この詩を引用した後に、触れてみますね。
朝の歌
天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶ひ
手にてなす なにごともなし。小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諫めする なにものもなし。樹脂の香に 朝は悩まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森並は 風に鳴るかなひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
中原中也「朝の歌」
詩が書かれるまでの経緯
まずは「朝の歌」が書かれるまでの経緯について触れます。
大正14年3月、中也は同棲相手の長谷川泰子と共に上京します。そして4月に、詩人の富永太郎の紹介で小林秀雄と知り合います。同年11月になんと、富永太郎が結核で亡くなり、同じ頃に泰子が小林秀雄の元へ去っていきます。
その翌年の大正15年5月に、「朝の歌」は書かれました。
親交の深かった詩人と、運命の女性というべき同棲相手が離れていったあとに、この詩は生まれたのですね。
中也が晩年に書き残した「詩的履歴書」によると、「朝の詩」については次のように述べられています。
大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす。
この詩で中也は、詩の作風を確立したと考えられます。つまり、詩人としての方針を立てたと言えます。
形式と主題の方針
「朝の歌」はソネットで、五七調のリズムが基本となっています。
いわゆる古典的な文語定型詩ですね。
中也には七五調をおもわせる詩がいくつもあります。(「頑是ない歌」など)
中也の詩の多くには、読者を病みつきにさせるようなリズムが流れていますが、「朝の歌」にもその兆しが感じ取れます。
ただ、詩人としての方針が、形式だけを指しているかと言ったら、そうではありません。
ここに描かれいる喪失感や倦怠感は、後の詩にも主題として度々現れます。
たとえば、以下の詩がそうです。いずれも「朝の歌」と同じ四連構成の定型詩です。
これらの詩については記事に書いているので、もしよかったらご覧くださいね。
長谷川泰子に対する喪失感が垣間見れる「六月」
倦怠感が滲み出ている「汚れつちまつた悲しみに……」
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