谷川俊太郎さんの「朝の光」という詩を紹介いたします。
谷川さんの朝をテーマにした写真詩集「朝」(2004年)からの引用です。※初出は「真っ白でいるよりも」(1995年)。
朝の光
朝の光は通り過ぎる
あなたの柔らかい肌をかすめて
テーブルの上のオレンジを迂回して
窓から見えるあの桟橋へ
そしてもっともっと遠くの海へと影のうちに心はいる
光の素早さにおびえながらも
それが動きやめぬことに安らいで繰り返すものはどうしていつまでも新しいのだろう
朝の光もあなたの微笑みも
いま聞こえているヘンデルも……
一度きりのものはあっという間に古びてしまうのに人々が交わすおはようとさよならのざわめきの中を
朝の光は通り過ぎる
まだ心は影のうちにいる
夜の夢にとらわれて
谷川俊太郎「朝の光」
詩の鑑賞のポイント
繰り返すものはどうしていつまでも新しいのだろう
朝の光もあなたの微笑みも
いま聞こえているヘンデルも……
一度きりのものはあっという間に古びてしまうのに
まずはこの言葉に、ハッとさせられます。
朝が来るたびに、またいつもの朝が来たと思い、どこか当たり前のように感じてしまうものの、決してそうではないんですね。
何千回、何万回巡ってきても、朝の光は新鮮なままです。
まだ心は影のうちにいる
夜の夢にとらわれて
この心は、詩の主人公の心でしょうか。
なぜ影のうちにいるのか、夜の夢にとらわれているのか。自分の身に当てはめたり、物語を想像してみても、謎が深まるばかりです。(謎めいているのが、詩の魅力ではありますが)
影や夜と対比することで、朝の光はますます際立って輝いてみえます。
【参考】まど・みちお「どうしていつも」/鴨長明「方丈記」
谷川俊太郎さんの「朝の光」を最近になって読み返したとき、思い出した詩がありました。
まど・みちおさんの「どうしていつも」です。こちらも引用いたしますね。
どうしていつも
太陽
月
星そして
雨
風
虹
やまびこああ 一ばん ふるいものばかりが
どうして いつも こんなに
一ばん あたらしいのだろう
「一ばん ふるいものばかりが/どうして いつも こんなに/一ばん あたらしいのだろう」と、まどさんも言います。
太陽や月や星、雨や風など、日常でいつも目にしているものばかりだけれど、見飽きることがありません。
それらは絶え間なく続いていても、止まることがないからです。
かの有名な鴨長明の「方丈記」も、こんな言葉ではじまっていますね。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
一度きりの情報が垂れ流されて古びていく世の中において、新しい命を持ち続けるこれらの詩や古典は貴重ですね。
コメント
≪…絶え間なく続いていても、止まることがないからです。…≫のを、方丈記の冒頭と草枕の冒頭とに、数の言葉の自然数(ヒフミヨ)として眺望したい・・・
ヒフミヨは△回し〇に生る (情と意地の融合)
ヒフミヨは〇□のなぞり逢い (情と智の融合)
漱石忌さん
コメントありがとうございます。
ヒフミヨ・・・とは、一ニ三四、つまり自然数のことでしょうか?
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」との、草枕の有名な冒頭を思い出して、
漱石忌さんのコメントに思いを巡らせました。