金子みすゞの雨の詩…「お日さん、雨さん」「雨のあと」「寒のあめ」

金子みすゞさんの作品で、雨が出てくる詩を3編紹介します。

「お日さん、雨さん」「雨のあと」は雨上がりについて、「寒のあめ」は冷たい雨について描かれています。いずれもみすゞさんらしい、優しい言葉です。

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お日さん、雨さん

お日さん、雨さん

ほこりのついた
芝草を
雨さん洗って
くれました。

洗ってぬれた
芝草を
お日さんほして
くれました。

こうして私が
ねころんで
空をみるのに
よいように。

「お日さん、雨さん」は、暖かな気持ちになる詩ですね。

雨さんが洗って、お日さんが干した芝草は、ふかふかで寝心地がよさそう。そこから仰ぐ空も、大らかに晴れわたって見えそうです。

私たちは水や光の恵みに守られて、生きているのだな……と、実感します。

ところで雨さんもお日さんも、「優しくしなきゃ!」と力んで、降ったり照ったりしてはいないと思うんですね。ただ自然に成すがままにしているだけで、結果的に人に優しい世界を作り出しているというのでしょうか。

つまり、存在しているだけで、優しいです。

私たちも、無意識のうちに浮かべた笑顔や、何気なく呟いた言葉が、誰かを励ましていることもあるかもしれないです。

これを読んでいるあなたも、ただ生きているだけで、誰かにとっての「雨さん」や「お日さん」のような存在になってるかもしれないですね。

雨のあと

雨のあと

日かげの葉っぱは
泣きむしだ、
ほろりほろりと
泣いている。

日向ひなたの葉っぱは
笑い出す、
なみだのあと
もう乾く。

日かげの葉っぱの
泣きむしに、
たれか、ハンカチ
貸してやれ。

金子みすゞさんは、光と影、目立つものと目立たないもの、どちらにも目を向けて、影や目立たないものをすくい上げるような詩を生みだしています。

なので、目立たない立場にいる人がみすゞさんの詩に触れると、自分のさみしさや人知れず努力していることなどに、そっと光を当たられたような思いになります。すっと心が軽くなりますよね。

「雨のあと」の詩でも、日かげの葉っぱに思いやりを示しています。

泣きむしの葉っぱに、「ハンカチ貸してやれ」と呼びかけているのが、とてもいいです。

日向があれば、日かげが生ずるのは、仕方ないこと。それでも、みすゞさんのような優しい見方で世界を包み込むことができれば素敵ですね。

寒のあめ

かんのあめ

しぼしぼ雨に
日ぐれの雨に、
まだのつかぬ、
街燈がぬれて。

きのうの凧は
きのうのままに、
梢にたかく、
やぶれてぬれて。

重たい傘を
お肩にかけて、
おくすりげて、
私はかえる。

しぼしぼ雨に
日ぐれの雨に、
蜜柑の皮は、
ふまれて、ぬれて。

「寒のあめ」とは、寒中に降る冷たい雨のこと。冬の季語に当たります。

寒中は寒の入り(1月5~6日頃)から、寒の明け(2月4日頃)の約30日間です。そんな寒中に降る雨だから、今にも雪になりそうなほどの雨です。

さて、「寒のあめ」の詩は、先ほど紹介した「お日さん、雨さん」や「雨のあと」とは趣が異なりますね。

「お日さん、雨さん」や「雨のあと」が朗らかな童謡なら、「寒のあめ」は暗うつな詩という印象があります。(もちろん、みすゞさんの優しい言葉でつづられているため、むごい感じはしませんが)

まだ灯のつかぬ街燈、やぶれた凧、ふまれた蜜柑の皮、等々…。とてもリアルに描写されています。

「雨のあと」のハンカチのように、救いの手が書かれることもありませんから、余計に切ないです。

「おくすり提げて、私はかえる。」ということは、主人公かそのご家族の方がご病気ということでしょうか?

病で苦しんでいるのなら、目に映る景色も寂しく沈んでいるのは自然なこと。この詩は無理に元気づけようとするより、病に寄り添っているようです。

みすゞさんの詩には、両面性があります。「お日さん、雨さん」や「雨のあと」にある明るさも、「寒のあめ」にある暗さや寂しさも、両方ともみすゞさんの一面であると思います。

 

コメント

  1. 原田 より:

    面白い

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