石垣りん「くらし」の感想…生命にまっすぐに刺さる詩

これから石垣りんさんの「くらし」という詩を紹介します。

短くシンプルで、生命にまっすぐに刺さる詩です。

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石垣りん「くらし」

くらし

食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。

詩の鑑賞と解説

言葉が強い詩

石垣りんさんの詩は静かでありながら、とても言葉が強いと思います。

私が女流の詩人で言葉が強いと思う人に、お二方いらっしゃいます。

一人は石垣りんさんで、もう一人が茨木のり子さんです。お二人は仲のいい友達で、私はお二人の詩が大好きですが、それぞれ言葉の強さの質は違うように思います。

茨木のり子さんの場合、「自分の感受性ぐらい」や「倚りかからず 」のような詩を読むと、まるで背中を叩かれたみたいに背筋がシャンと正されます。

それに対して石垣りんさんの場合は、この「くらし」のような詩を読むと、短刀で急所を突かれたみたいに言葉が刺さって、あとでジワジワと沁みるんですよね。それほど、生命の本質に的中しているからでしょう。

では、「くらし」の詩が何を意味しているのかと言うと、私たちは生きてるようで、実は生かされているという事実です。

生きているようで生かされている

たとえば、私はお腹を空かせて帰宅した時、一目散に食事の支度をすることがあります。

あまりにも空腹がひどいときは、その欲求を満たすのに必死です。サッと料理して、あっという間に食べて、お皿を台所に持っていくと、野菜のくずだとか、ベッタリ汚れたフライパンだとかを見て愕然とします。

欲求は本当に理屈抜きです。欲求が満たさないと、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされます。それ以外のことなんて考える余裕もありません。

でも、後々冷静になってふり返ってみると、他の命を殺めてきたことに気づくんですね。

生きることも同様です。頭を抱えるほど悩んでいるときや、髪をふり乱すほど忙しいときは、自分のことしか見えにくいものです。

ところが、他の人を苦しみの上に、自分の生活が成り立っていたことを思い知らされると、泣きたくなるほどの哀しさがこみ上げてきます。

歳を重ねるほど実感

私は以前、石垣りんさんの詩の価値は時を経ても変わらないということを、「空をかついで」についての記事で書かせていただきました。以下の記事です。

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石垣りんさんの詩には普遍性があります。

ただ「くらし」の詩は、歳を重ねれば重ねるほど、実感を持って身に迫ってくる詩だと思います。

私は数十年前にこの詩を読みましたが、その時はあまりピンときませんでした。今ならこの詩を、自分のことのように読むことができます。

石垣りんさんも五十歳近くになって、「人間が獣であるということの悲しみ」に気付いたと言います。

食わずには生きていけない、人間が獣であるということの悲しみを知るまでには、四十歳の日暮れまで生きてこなければならなかった。五十歳近くになって、はじめてそのことがわかった。そのことに驚いて書いた詩です。

引用元:私の自叙伝―三冊の詩集―
(ちくま文庫「教科書で読む名作 一つのメルヘンほか詩」)

正直で潔いゆえのカタルシル

私は「くらし」の詩には、カタルシスがあると思います。

そのことについて、先ほどお名前を出した茨木のり子さんも、次のようにおっしゃっています。

「くらし」が生きものの持つあさましさをテーマにしながら、読み終えたあと一種の爽快さにひたされるのはなぜなのか。おそらくこの詩の中に浄化装置がしこまれていて、読み手がここを通過するさい、浄められて、思いもかけない方角へ送り出されるからだとおもいます。
浄化作用カタルシスを与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分かれ目なのです。だから音楽でも美術でも演劇でも、私のきめ手はそれしかありません。

引用元:詩の心を読む(岩波ジュニア新書)

ではなぜ「くらし」の詩にカタルシスがあるのか。それは石垣りんさんが正直に潔くご自身を見つめていらっしゃるからだと思います。

詩の最後にある「獣の涙」も、嘘がないから、すがすがしく感じられます。

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