石垣りんさんの「幻の花」という詩を紹介します。
石垣りんさんは、1920年(大正9年)に生まれ、2004年(平成16年)に亡くなりました。
14歳のときに日本興行銀行に就職し、55歳で定年を迎えるまで勤めました。戦前、戦中、戦後と、家族の生活を独りで支え続けて、生涯独身を貫きました。
生前に刊行した詩集は、たった4冊。寡作かもしれませんが、どの詩集も年月が凝縮された重みがあります。
日常生活や社会や命をまっすぐに見つめて、読む人の心に強く刺さるような詩を生み出してきました。
石垣りん「幻の花」~鑑賞・解説~
幻の花
庭に
今年の菊が咲いた。子供のとき、
季節は目の前に
ひとつしか展開しなかった。今は見える
去年の菊。
おととしの菊。
十年前の菊。遠くから
まぼろしの花たちがあらわれ
今年の花を
連れ去ろうとしているのが見える。
ああこの菊も!そうして別れる
私もまた何かの手にひかれて。
重なる年輪と死の予感
生きることは年輪を重ねること、そしてその根底にある死を予感することだと、この詩を読むと気づかされます。
子供が目にする菊と、大人が目にする菊と、どちらも素晴らしい菊です。
ただ、大人が見る菊には、去年やおととしや十年前の記憶が重なるため、よりいっそう深みを増していきます。そしてその菊が、やがて枯れていくのを知っているため、ますます菊は、生命の光を放っていきます。
「まぼろしの花たち」というのは、過去に散って今はこの世にない、菊の魂のことでしょうか。菊に限らず、生物全てを司っているような、大きく果てしない力のようにも見えます。
死んだことのある人はいない
そして、生きている私たちは、どんなに年を重ねて、死について見聞きしたとしても、死を体験したことはありません。
死んだことのある人は、ひとりもいないのです。
この詩を最後まで読んで、ほっと息をついた後、
「ああ、そうだ!私もまた何かの手にひかれて、生きているものたちと別れるのだ!」
と気づかされます。
そう、「何かの手」は、作者の石垣りんさんだけではく、詩を読む私たちをもいつかは引いていくのです。
序破急で腑に落ちる
ところで、「幻の花」の詩の流れは、まさに序破急ですね。
最後の二行で、ストンと腑に落ちます。
石垣りんさんと仲の良かった茨木のり子さんは、この詩の構成について次のように仰っています。
完璧という言葉はやたらに使いたくありませんが、「幻の花」は完璧としか言いようがありません。足りないものは一つもなく、余分なものも一つもなく、菊をみていた視線から転じて、おしまいの二行に飛躍する呼吸の自然さ。
引用元:『詩のこころを読む』
私もこのことに同感です。
完成されていて、過不足なく、しかも心地いい詩です。
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