高村光太郎と智恵子は、愛と信頼にもとづいた夫婦関係を続けてきました。
ところが智恵子が精神を病み、肺結核で亡くなることで、二人の結婚生活に終止符が打たれます。
それでもなお、光太郎の智恵子に対する想いは尽きることありませんでした。
現在出回っている詩集『智恵子抄』では、光太郎が智恵子と死別してから書かれた詩も見ることができます。そのなかから、「裸形」という詩を紹介いたします。
裸形
智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造型の瑪瑙質に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造型を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪とがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中に帰らう。昭和二四・一〇
高村光太郎「裸形」
智恵子亡き後の光太郎について
まずは高村光太郎が、昭和13年に智恵子を亡くしてからどのような日々を過ごしていたのか、簡単に触れたいと思います。
当時の日本は戦争の色が日増しに濃くなりました。昭和20年4月に東京のアトリエが空襲により焼失して、同年5月に光太郎は岩手に疎開します。そこには宮澤賢治の弟である清六がいました。
光太郎は終戦後も岩手に残り、質素な小屋を建てて、7年間独居自炊生活を続けました。戦争中に戦争協力詩を数多く書いてしまった、自責の念による行動でした。
「裸形」はその独居生活中に書かれた詩のひとつです。
智恵子の裸形をこの世にのこして…
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中に帰らう。
「裸形」のなかには、こんな言葉がありますね。
高村光太郎は優れた彫刻家で、岩手での独居生活の後に、青森県十和田湖畔の記念碑を制作しました。その完成した裸体像、「乙女の像」は、智恵子にそっくりだと言われています。
「乙女の像」について、草野心平は次のように述べています。
十和田湖畔に建ったモニュマンの顔は智恵子さんそっくりといっていい。智恵子さんとはまるっきり別のモデルを使って出来上がったものだが、顔は智恵子さんである。といってからだと貌とはばらばらではない。裸像には智恵子さんのエスプリがながれている、というのが間違いならば、高村さんと智恵子さんとの一身同体的な魂が裸像の中核でありそれが指のさきまでも溢れているといった方がより適切であるかもしれない。
引用元:悲しみは光と化す
草野心平も指摘しているとおり、「乙女の像」によって、光太郎は智恵子の裸形をこの世に残したのだと思います。
高村光太郎は、昭和31年4月2日に永眠。天然の素中に帰りました。
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