高田敏子さんは、日常生活に根ざした、やさしい詩を書き続けていました。
やさしいというのは、易しくもあり、優しくもあるという意味です。
朝日新聞では1960年から1963年まで、毎週月曜日に誰でもわかるような詩の連載を続けて、多くの人に親しまれていました。
1966年からは「野火」という詩の会を主宰して、日本全国にいる800人の会員から慕われていました。
そんな高田敏子さんも、詩から教わることがあったそうです。
これから「海」という詩を、エピソードと共に紹介しますね。
あなたはこの詩をご覧になって、どんなことを感じるでしょうか?
海
少年が沖にむかって呼んだ
「おーい」
まわりの子どもたちも
つぎつぎに呼んだ
「おーい」「おーい」
そして
おとなも 「おーい」と呼んだ子どもたちは それだけで
とてもたのしそうだった
けれど おとなは
いつまでもじっと待っていた
海が
何かをこたえてくれるかのように
高田敏子「海」~鑑賞・解説~
作者:高田敏子さんの解説
高田敏子さんはご自身による詩の解説書『詩の世界』で、この詩が生まれた背景を明かしています。
まずは一枚の海の写真を見て、子ども時代にすごした海と、おとなになってから行ったことがある海を、記憶から呼び起こしたそうです。
そして、あることに気づきました。
子どもは遊ぶということを、ただその行為だけを楽しむことができます。
「おーい」と呼ぶだけで楽しくて、何回呼んでも飽きることはないです。
ところが大人は、役立つことしかしたくないとか、お返しがないとできません。
「おーい」と呼んでも答えがなければ、何回もくり返すことはできません。
子どものように、するという行為をたのしむ気持をもたなければ! と、わたくしは、この「海」の詩ができたことから、そうしたことに気づき、反省をしたのでした。
自分のさびしがりやの原因が、この詩を書いてわかったわけですが、このように、書いたあとで、教えられるということが、わたくしの場合は多いのです。引用元:詩の世界(高田敏子 著)
読者:私の解釈
私はだいぶ以前に「海」の詩を見て、後になって高田敏子さんのこの解説を読んだのですが、「え?」と驚いてしまいました。
なぜなら、私の解釈と全く違っていたから。
私は「海」の詩から、大人がお返しを求めてしまう寂しさよりも、大人の考え深さを感じました。
私は子どもの頃は無邪気に遊ぶだけで、人の心や世の中に裏があるなんて、考えもしませんでした。表だけ見て、それが全てだと受けとめて、素通りしていたところがあります。
ところが経験を重ねるにつれて、あらゆる物に裏があり、奥深さがあることに気づきました。
「おーい」と呼びかけて、答えをじっと待っていられるのは、そこに何かがあると信じられる大人だけです。
もちろん、子どもには世界の本質を丸ごとつかんでしまうような、大人にはない奥深さがあります。
そして、大人の考えすぎるところは、毒にもなります。
ただ、毒だと思い込んでいた性格や癖も、じっと見つめ直してみたら、実は薬だったということもありますよね。
「海」の詩は、そんな大人の考え深さを、良薬だと気づかせてくれるような優しさがあります。
コメント
私もこの詩を読んだときの感想は、作者の意図と違い、まほし様とほぼ同じ趣旨で受け取りました。(→大人について)
作者の意図を読み手に感じさせたいなら「いつまでもじっと待っていた」の表現を、もっと別の表現を使うべきだったと思いました。
こういう文字、表現そのものから外れる(と僕は感じています)意図をもつのは作者の自由ですが、これを出題される受験生にとっては?????となります。
国語の授業で扱うなら、読み手各自が受け取った感想も大事するのなら良いのですが、作者の意図だけが正解、となると酷いまたは無意味な詩の学習だと思いました。
国語教師さま
はじめまして。コメントありがとうございます!
国語教師さまも、高田敏子さんの「海」について、私と同じように感じましたか。
そうなんですよね。今、読み返してみても、大人が見返りを求めているというよりも、何かに耳を澄ましているような、思慮深さを感じます。
>国語の授業で扱うなら、読み手各自が受け取った感想も大事するのなら良いのですが、
>作者の意図だけが正解、とな>ると酷いまたは無意味な詩の学習だと思いました。
このことにも同感です。
「Aさんの感想も、Bさんの感想も素晴らしい」という風に、お互いの個性を尊重することができたなら、どんなに実りのある学習になるかと思います。