室生犀星の「きょうという日」という詩を紹介いたします。
ふつうの何気ない日はもちろん、誕生日の前や大晦日の夜など、節目の日に特に読みたい詩です。
きょうという日
時計でも
十二時を打つとき
おしまいの鐘をよくきくと、
とても 大きく打つ、
きょうのおわかれにね、
きょうがもう帰って来ないために、
きょうが地球の上にもうなくなり、
ほかの無くなった日にまぎれ込んで
なんでもない日になって行くからだ、
茫々何千年の歳月に連れこまれるのだ、
きょうという日、
そんな日があったか知らと、
どんなにきょうが華かな日であっても、
人びとはそう言ってわすれて行く、
きょうの去るのを停めることが出来ない、
きょう一日だけでも好く生きなければならない。
室生犀星「きょうという日」
真夜中の十二時になった瞬間、きょうという日に思いを巡らせたことはありますか。
私は子ども頃、夜中に十二時の鐘を生まれて初めて耳にしたとき、きょうの行方がとても不思議でした。大人になった今も、その謎を解き明かすことができないでいます。
きょうという日は、十二時の鐘が鳴ると共にはじまり、そして終わっていきます。この詩はその終わりに着目して、その行方を追っているのですね。
おわかれした日は、地球からいなくなって、茫々何千年の歳月に連れこまれていって、その後どうなってしまうのか。
その行方は考えれば考えるほど謎ですが、はっきりと言えることがあります。
それは「きょうの去るのを停めることが出来ない」こと。
どんな日であっても、後戻りしてやり直すことはできないし、忘れ去れていきます。
さて、こうしている間にも、時間はどんどんと過ぎていきます。
「きょう一日だけでも好く生きなければならない。」……この詩を読むと、自ずとそう思いますね。
コメント
今日という日を尊く感じられる素晴らしい詩でした。